
迷える子栗鼠
道に迷ってしまった。
ここはどこだろう? 左方の小道はさっき通った気もする。
近道だろうと思って行ったはずだったのに、片側三車線あった国道の大通りは、見通
しの悪い一般道に入り、ついには中央線すらない住宅街の狭路へと入っていった。
こっちへ行こう、そう思った方向には通行禁止の看板。導かれるように彷徨った先は、
乗り越えようも無い袋小路。引き替えしてみた所で、元の道に戻る事は出来ず、曇り行
く空に呼応して寂しげに点滅する街灯に、締め付けられるような心細さを感じながらも、
必死にそれを表に出さないように努めた。が、
「もしかして、迷っちゃった?」
助手席から放たれる、微笑を交えた一言により、築き上げたその努力は脆くも崩壊した。
「ちょっと間違えただけだよ」
なおも、健在であると装う。
しかし装った分だけ、事態は深刻さを増していく。街中を走っていたはずなのに、道
の脇に畑が広がり、段々山道へと入っていった。
思えば、ずっとそうだった。
さして確信も無いまま、ただ当て推量で道を選んで、迷い迷って行き止まり。目的地
はおろか元の位置もわからず、今は進んでいるのか、それとも戻っているのか。
やがて辺りを包む暗さに、隣りにいるはずの姿も見えず、ましてや何を考えているか
など、解ろうとすることすら困難を極めた。
右前方に月が昇った。それを雲が追っていく。そこにパラつく小雨。揺れる車。
目は道を探してながら、車内に漂う沈黙の時間と、次の言葉に脅えていた。
何が自分に放たれるだろう。失望の溜息か、怒りの罵倒か、侮蔑まじりの叱責か。
うねる道にハンドルを取られ、ライトを反射するミラーに心を脅かされ、慣れた車に
後ろを煽られて行き着いた道の周りには、暗く鬱蒼とした林。そしてその影。
それは、進む事も、戻る事も、その場から動く事さえ拒むように、諦める事を促すか
のように、絶え間無く包み込んでいた。……
「あ」
助手席から声が上がった。一瞬、意識が飛んだ。
「懐かしいね、この曲」
と、途切れ途切れになったカーラジオから流れる曲の感想を漏らした。
「ああ、俺が中二の時くらいかな」
「それじゃあ、私はまだ小六だね」
ひとまず安堵、続く緊張。
続いて、クスクスと笑う声が聞こえた。
横目に表情は良く見えないが、ともかく体を揺らして笑っているのは解る。
笑う。それほど心の内を読みきれない外部表現があるだろうか。怒り狂っているのか、
呆れているのか、嘲っているのか、もうどうでもいいのか、それとも……
「何がおかしいんだ?」
語尾が裏返ったのを、咳で誤魔化した。
クスクス笑いは止まったが、すぐ質問には答えず、伸びをするような呻きと音を上げて、
「楽しくなってきちゃった」
と、明るい声で言った。
「ねえ、覚えてる?」
そう続けながら、背もたれにぐっともたれかかり、ジーンズの足をぐいっと組んだ。
「覚えてるって、何を?」
「前にも、こうやって迷った事あるよね。さっきの曲がよくかかってた頃かな」
「そうだったか?」
とぼけた。
が、その実、その時の光景は、頭の奥にありありと浮かび上がっていた。
淡く青い街灯。
しな垂れる常緑樹。
繋いでいた手の冷たさ。
同じように隣りどうしで、刺すような寒さの暗い夜道を、二人きりで迷っていた。
あの時以来、その手にすら触れた事は無い。
あの時以来、ずっとその漆黒の中を、一人きりで歩いていた。
「あの頃は本当に泣き虫で、ずっと泣きじゃくってた私に、『大丈夫だ』って言って
励まし続けてくれたよね。学校の話とか、歌とか歌ったりして。そしたら、道に迷うの
が楽しくなっちゃって、もうちょっと迷っててもいいかなって気分になったんだ。あの
頃は、今よりもちょっと頼もしかったかな」
でも本当は家の近くだったんだよね、とオチをつけ、また堪えるように笑った。
一緒には笑えなかった。
『今よりもちょっと頼もしかったかな』の言葉は、この状況であまりにも重かった。
いつからか、頼もしい存在ではいられなくなっていた。
二つ下の、手のひらに乗るような少女。迷っている時は引っ張る事も、支える事も、
導く事も出来たはずなのに、手のひらの少女は年月を追い越すほどのスピードで成長し
続け、いつの間にか手に余るようになっていた。
今、できる事と言えば、見守る事と、許す事だけ。
それでも、頼もしいフリをし続けなければならなかった。全てを知っているような顔をして、
何もかも受け止めなければならなかった。
自分以外の誰かを愛しているのだとしても。自分の気持ちを押し込み続けて。
それだけが、二人の関係を支えていた。
「あの頃は、泣いてばかりの自分が嫌だった」
いよいよ闇に覆われた助手席から、細い声がわずかに漏れた。
「どうして、あと二年早く生まれなかったんだろうって、一度も思わなかったわけじゃ
ないんだよ」
それは単純な年の差ではなく、築き上げてしまったもどかしい立場。
「今は、泣けないのがちょっと辛いかな」
もはや、胸を貸すことすら出来ないのか。
もう元には戻れないのかもしれない。迷い続けたこの道のように。……
「……向こうで何があったかは知らないし、聞かない」
聞いた所で、気の利いたことは何も言ってやれない、だから、
「泣きたいのなら、泣いてもいいぞ」
と、そう声をかけるのが精一杯だった。
「泣きたい事なんか、何にもないよ」
誤解しちゃった? と、思い出したように明るく言った。
それから、再び沈黙が車内を支配した。古いタイプのエンジン音だけが、ボディを通
じて響き、それに隠れるように、しゃっくり一つ。
車を包む暗闇は、周囲の景色を全て消し去り、首をもたげたヘッドライトが、ただ足
元だけを照らしていた。
その時、周りにあるであろう林の中から、小さな影がボンネットの上に飛び乗った。
リスだ。リスが、何でもない顔をして、二本足で立っている。
その手にはどんぐり。
「止まって」
という声に反応して、慌ててブレーキを踏むと、リスは驚いたように引っくり返った。
「おいおい、リスが乗ったくらいで……」
「ううん」
非難の声を、首振りで制した。そして、
「この道、知ってるかも」
と言って、ハンドルを支えている腕をぐっと掴んだ。
運転を替わる事にして、ドアを開けて前に回ると、ボンネットの上のリスが、駆け足
で傍に寄ってきた。
「脅かしてごめんな」
手をそっと差し出すと、ひとさし指の先っちょを、前歯でガブリ。
どんぐりを落とされて、相当怒っていたのか。
「やられちゃったね」
助手席から出てきた笑顔は、車内のライトに照らされて、全てを溶かすような闇の中
で、とても懐かしい思い出のように浮かび上がっていた。
「噛み付くくらいがかわいいんだよ」
刺創からは、血がポタポタと垂れ落ちている。
「ふうん、尻に敷かれるタイプなんだ」
「何の話だよ」
食えない話に、リスもボンネットから飛び降りて、林の中へさっさと行ってしまった。
――知ってる? リスって、食べきれなくなった木の実を土の中に埋めておくんだけ
ど、いつの間にかその場所を忘れちゃうんだって。だから、リスはいつも無くしものを
抱えながら、暗い森の中で道に迷ってるんだよ。
そう、何だか僕らみたいだね。
「ねえ、聞いてる?」
運転席からの声に、ハッと気がつくと、周りには電灯散らばる街の風景が広がっていた。
「あれ、林はもう抜けたのか?」
「あ、やっぱり聞いてなかった」
あまりにも安定した運転に、眠ってしまっていたのか。
いつから? ――指先には赤い痕。
それを見つめているうちに、暗い中で迷い続けていた自分が、とても情けない存在に
思え、知らない街の中で、知らない女が隣りにいるような、そんな気になってきた。
「……それでね、話の続きだけど」
知らない女は、知らない話を続けた。
「春になったら、家を引き払って、こっちに帰ろうと思ってるんだ」
知らない女は、知ってるような声で言った。
「あれ、向こうで成功するんじゃなかったのか?」
「成功なら、こっちでもできるから。それに……」
「それに?」
「それに、こっちに好きな人がいるんだ」
交差点で、ハンドルは左に切られた。すると、いつか通った道が前方に見えた。
そこで更に左に曲がれば、目的地だ。
「あーあ、おなかすいちゃった」
対抗車線からのライトに照らされた運転席には、いつか隣りにいた顔があった。
「帰りは、また運転まかせるからね」
「また、迷うかも知れないぞ」
「いいよ、楽しいから」
その後、ふたりがどうなったのか。それは、森のリスにはわかりません。
でも、いつか埋めて忘れたどんぐりの実が、芽が出て、膨らんで、大きな木になって。
そして、また実をつけて。
迷える子リスの頭にポトリ。
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